アル厨の在宅ワークと育児の記録

外資系企業サラリーマンの在宅ワーク期間中の備忘録(たまにNTRにハマる友人について触れるのでエロく乱れます)

8月30日(日) 快晴

 帰省の予定を急に立てたこともあり、2カ月置きに予約をしている美容サロンの予約を飛ばしてしまう失態を犯してしまった。
 実家から戻って来て早速サロンへ連絡を入れて予約を取り直そうと思ったのだが、コロナ禍前までのスタイリストから出社を制限された流れからフリーに転身したのだとFacebookで連絡をくれていたことを思い出し、メッセンジャーでコンタクトを取ってみると、その週末の希望した時間で予約を取ることが出来た。
 そのスタイリストが出社を制限されたらしい4月から、その次の6月のカットとパーマは所謂彼の上司のディレクターに当たる人が担当してくれていたのだが、担当者が変わることや、スタイリストからディレクター単価に変わることの説明が特段なされることが無かったことへの違和感も正直感じていた。5年以上も指名していたのだからなおさらだろう。
 ただ、ディレクタークラスの面々がスタイリストやアシスタントを伴わずシャンプーなども全て1人が担いながら店舗を回していたので、元々売上げを見込めないアシスタント分はさることながら、顧客を一旦引き継いだ上層部がスタイリスト達の売上げも一挙に稼いで雇用を維持しているのだったら、凄い仕組みだなとは思っていた。

 予約当日、指定されたビルのエレベーターを降りると、エレベータホールなるものは無く、そこが早速店舗と言うべきかフリーの美容師が利用できるスペースとなっていた。こういった場所は市内でも少ないのだという。
 再会の挨拶と合わせてスタイルについての会話を程々に済ませる中で、当然サロンの話題が移ったのだが、コロナ禍により店舗の維持が難しいとの判断によりスタイリスト以下の従業員はフリーになるか他店舗への移動を余儀無くされたのだという。担当のスタイリストは既に僕のような顧客を抱えたはずだからまだ良いものの、アシスタントクラスの従業員は路頭に迷うのではないか。

 僕達がリモートワークが当然となったように、スタイリストの彼に取っても働き方は大きく様変わりした様子だった。
 これまでのように時間通りに店舗に出社するというよりは、予約に合わせてその共有のスペースを出入りする。当然何時までは店舗で仕事という概念も無くなり、その日の予約分の仕事を熟したら帰宅と、時間の融通も利くようになったという。元々の顧客か、知人を伝っての完全な口コミでの集客は免れないであろうが、今はSNSなんかを使えば如何様にでもなるのではないか。
 手に職とはいったもので、自らの手先の技術を直接顧客にサービスとして提供出来る仕事である。我々のようなIT業界でも、僕のような立ち位置だとフリーになったとしても、どうしても大きな一次請けの企業のプロジェクトに下請けの立場として関わることになるので、実現しようとしてももっと個人向けのサービスへシフトしなければそれは叶わないだろう。

 スタイルの仕上がりは言うまでもなく完璧で、またこれから世話になるだろうと確信しながら彼のLINE@のアカウントにスタンプを送った。「最近はスマホのアプリでカルテの管理も出来るんです」と言いながら、仕上がったスタイルをiPhoneに収めていた。
 会計をしながら僕も、「お店に来るという感じじゃなく、人に会いに来る感じで不思議な感じですね」とお礼を言ってエレベーターに乗り込んだ。
 妻のウケも非常に良かった。

 

8月23日(日) 快晴

 夏の帰省は例年であれば盆休みと重なることとなるため、僕の地元の花火大会に合わせた予定を組んでいた。
 出店の連なる商店街を歩いていると誰かしら昔の馴染みと会えるので、年中行事の中でも楽しみの一つでもある。こういった場合だと飲みながら通りを歩いていても浮くことはない。
 その場で声を掛けてくれる者もいれば、後日Facebookで実は見掛けたなどとコメントを寄越してくれる者もいて、必ず誰かと久々のコンタクトを取るキッカケにもなっていた。
「見掛けたなら後ろからこっそり近付いてカンチョーでもしてくれれば良かったのに」
「奥さんと一緒だったじゃん。気不味いでしょう(笑)」
 そうする中で昔のセフレと思わぬ再会をすることもあり、何だか何でもアリみたいになっているのも事実だが、以前過ごした街でその様なことが起こるのはもはや不可避ではないか。

 今年はその帰省の計画を前倒しすることもあり、その場に居合わせることが出来ないことを残念がっていたが何のことは無く、コロナの影響で全国的に花火大会は中止であった。
 だが調度妻の実家から僕の実家へ移動したその翌日に、平日の夜だが晴れればサプライズで花火が打ち上げられるらしいと聞かされた。
 当日の天気予報は生憎の大雨であったにも関わらず、日中降り続いた雨は夕方にはすっかり上がり、子供を風呂に入れてその日の残務対応に追われていた僕も打ち上げられた花火のジリジリと鳴り響く音で一旦仕事の手を置き外へと出た。

 庭に出ると、昼間はうだるような暑さに覆われる盆地特有の気候も、陽が沈むと風が冷たく心地が良かった。同じ敷地の隣の家に住む祖母が縁側で同じように花火を眺めていたので、その横に腰を掛けた。
 Twitterで動画を上げてみては?と思い立ち、iPhoneカメラを動画モードで起動してラストを収めるのに成功したのだが、勝手を知らない祖母が容赦なく話しかける声も漏れなく織り込み済みである。静けさが戻って来ようかという時に何処からともなく拍手喝采のパチパチと手を叩く音が聞こえたのも束の間、それらも闇に沈む。
 上の子は母と2階の部屋から花火を眺めていた。都市部の雑踏をひと時だけ離れ、田畑から聞こえるスズムシの鳴き声を聞きながら何かを想っただろうか。

 年に何度かの帰省を楽しみにしている僕であるが、ここ数年はその帰省の意味合いも少し違っていた。 調度2年前の今頃、その祖母に肺癌が見つかり持っても半年だと聞かされた。
 そこから帰れるタイミングを捻出しては会えるタイミングを作っている。幸い当初半年程ではないかと言われながらも、抗癌剤との相性もあってか現在においても健在である。以前より痩せていたりはするが、家の中の用事を極力自分で担おうと居間と台所を呼吸を整えながら行き来しており、元気な姿を見ることが出来た。
 帰り際に母に対して、いくら抗癌剤が合っているからといっても既に1年と何カ月も経過しているし、薬が効いてもこれくらいだという期間も優に越えているのではないか?と問ってみた。
 医師にしてみても、流石にこればかりは本人の体力次第ではないかということであったが、帰省を終えて自宅へ戻った矢先の定期健診で、やはり抗癌剤の効力というものもそろそろ限度のようだと告げられたという。

 現職に就いた頃、最初に世話になったマネージャーに言われたことがある。家を出て生活を始めると、盆正月の年に2回の帰省を10年継続したとして実家の家族と会えるのは20回しかない。GWなどもそこに加えたり継続出来る年数次第でその機会は上下するものの、基本的には残された時間との兼ね合いの比重は大きい。今年はコロナの影響でGWを当然そこに充てることは出来なかった。
 せめて僕の上の子のランドセル姿が見れればと言っていたが、それどころか元気に過ごしている内に産まれたばかりの下の子も見せることが出来るとは考えてもいなかった。欲を言えばキリが無いが、残された時間を有意義に過ごすことは出来ているのかも知れない。

 9月の連休や年末にも会えれば良いと思う。こうしている内に電話を一本入れると今ならまだ会話も出来るのではあるが、不自然なことをするのもどうだろうと何処か躊躇してしまったりもする。
 とは言え、今晩は久しぶりに電話を入れてみようかと思う。

 

8月14日(金) 快晴

 子供の夏休み期間中とはいえ、僕にとっては普通の平日での帰省だったこともあり、妻と子供は日中はまったりと実家で寛ぎながら、涼しくなる頃を見計らっては母親と最寄りのスーパーへの買い出しや、市内でも少し足を伸ばして早めの夕食へ出掛けたりと、僕が仕事をしている間の時間を思い思い過ごしていた。
 僕の実家で過ごす場合、上の子は僕の母や叔母と何かウマが合うようで、仕事の合間に2階の部屋から居間へ降りると、そこに妻と下の子が加わってテーブルを囲んで茶菓子を摘まむ姿は何とも仲睦まじい光景で、後で振り返りながら手元のiPhoneで写真に収めておくべきだったと思った。

 地域によって夏休みへ入るタイミングも違うようで、実家の方では7月いっぱいは通常通りの時間帯で登下校する小中学生の姿が見えた。黄色い安全帽の小学生の目にするのは何年振りだろうか。

 休日のように余り出入りが出来ないが、実家であれば庭先で花火が出来るではないかと、妻の実家でも僕の実家でもスーパーで買ってきた手持ちの花火に火を点した。
 自宅マンション付近ではこのような光景はあまり目にしない。もしかしたら歩き煙草のように市の条例なんかで取り締まられているのかも知れない。
 父親が「ベランダでも花火は出来るのではないか」と言っていたが、隣の居住者とベランダでの煙草で少しゴタついたことがある身としてはとんでもないことだった。街の規模によって地域社会の常識というものも変わる。
 確かに実家であれば庭の周辺くらいであれば上半身裸でうろつけてしまう。だが自宅のマンションだと風呂上りにパンツ一枚でいると、それが自宅のベランダであろうとも向かいのマンションから見えてしまったら全裸でいるようなものかも知れない。

 叔父や叔母が実家の隣の祖母宅へ来ている日の晩に、皆が庭で花火を囲む姿をレンズ越しの被写体にすると周囲が暗すぎてとてもシュールに収まったが、これが真夏の田舎の家庭の姿だと思った。
 都市部へ移り住んでからは忘れてしまっている何かに触れながら回想する日々だ。花火を楽しむ上の子は火というものがまだよく分かっていないようで、ロングスカートのままロウソクを跨いでは、その火をゆらめかせていた。火や水の恐さは明示的に伝えなければならない。

 自宅の庭で楽しむ分には、気が向かなければ花火の後片付けは翌日にも回すことが出来る。バケツを持って出ては水を張ったり、出したゴミをそのまま持ち帰るといった邪魔くささは無い。
 花火の後片付けで思い出されるエピソードとして、未だ僕が上の子の今の歳よりも幼い時、父方の祖父母の家で叔父に花火で遊んでもらった時のことがある。
 父方の祖父母宅は急な坂道を登った先の高台で、近所の家並みが見下ろせる恰好にあった。花火を楽しんだ翌朝、庭から祖母が大きな声で誰となく呼ぶ声が聞こえるので玄関先へ出てみると、目の前の下の家の屋根の上に花火の燃えカスが無造作に散らばっていた。勢いよくバケツの水諸共闇夜に放った叔父の姿が目に浮かんだが、実際は僕達子供が家に入った後の沙汰だったため、その光景を見ていない。
 祖母は当然その家に詫びに行き、叔父は「暗くてそこが屋根だとは分からなかった」と言っていた。今にして思えば明るい時に何度も家を出入りしていたら分かるだろうと思うのだが、実際は向かいの家の間の手前には祖父母宅の壁面を沿うようにちょっとした畑のようなスペースがあり、そこへ放ったつもりだったが屋根にまで達したということだった。もちろん畑でも良くない。

 くだりの叔父というのはいつかの記事に書いた、「キテレツのブタゴリラドラえもんジャイアンのように嫌なヤツじゃないだろう?」だとか、「キャプテン翼の日向くんの家は貧乏なんだろう?」と言っていた叔父である。

 

8月7日(金) 晴れ

 今年の夏は上の子供が夏休みに入るのと合わせて7月中に帰省を済ませた。コロナ禍の煽りで5月の連休も自宅で過ごすことを余儀無くされたので、休暇でも何でもない平日を実家からのリモートワークとすることで、少し長めの帰省となった。

 カレンダー通りの休日には祖父母とお決まりのショッピングモールへ買い物がてらの外食に出掛け、いつもの帰省時と同じように過ごしたのだが、盆休みを外したからなのか自粛が続くからなのか、ヒトの行き来はそれほど多くない。振り返ると高速道路のPAの混雑もあっさりとしたものだった。
 ここぞとばかりに妻が祖母へ子供服を買い込んでもらっている間、僕は紀伊国屋書店の新刊を眺めながら、休日の日課の夕方17時に更新を続けている小説の構成に頭を巡らせていた。小説といっても数年前に書き溜めた20万字程度のストックを一度全て出し切ってしまおうと、今の気分に合わせて当時の諄い言い回しをシンプルにさせる程度のものだ。これを数千字毎に切りのいいところで区切って休日の夕方にリリースする。出先の合間を見計らってiPhoneでサクサクと進められる手軽さが良い。
 地味で細くても安定的に活動していると、コイツは何が出来る奴なのだと周囲にも認識されやすい。やはり継続することは大事だ。
 先日取材を受けたSPA!でもこの小説の目次画面が掲載されていてこっぱずかしかったが、自分のことが雑誌に取り上げられるのは何か嬉しい。

 平日の業務は自宅で行うのと変わらず怒涛の日々で、少し早めに午前中のタスクを切り上げては昔通った馴染みの店で食事でもと考えていたが迂闊だった。午前中の会議が昼過ぎまで押してしまい、次の13時からのミーティングに間に合うようにと、結局平日5日の内の2日は外食を楽しみに仕事を切り上げるのを待つ家族を引き連れてコンビニで簡単に済ませる羽目になった。
 業務の進捗は至って順調。実家からでも安定的な成果を上げられるのは組織が十分な働く環境を与えてくれているからに他ならない。普段通り日中は手元がごった返しているのは変わらないのだが、別の部屋には妻が子供を遊ばせていたりするため、外へ出て仕事をしている時のようなストレスを感じない。これを実家でも同じように行うというのだから少し不思議な感覚を覚えてしまう。

 寝床と仕事場を兼ねた実家の畳の間は、僕と弟が親元で暮らしている頃は両親の寝床としていた部屋で、昔の七五三の写真や水泳キャップを被って浜辺で泥団子を握る小学生の頃の自分を映した写真が無造作に飾られたままだ。
 夏のこの時期に実家にいるとナンパを覚えたての頃、日中のバイトを終えて毎晩20時くらいに仲間と車を乗り合わせて街へ出掛け、手当たり次第同世代の女の子グループに声を掛けては連絡先を交換するというのを明け方まで只管繰り返していた頃を回想してしまう。当時の生活を体が覚えているというのか意識的にどこか反応してしまうような不思議な感覚を覚えた。

 外へ出ればそれまで知らなかった別の街からやって来た女の子と仲良くなり、冷房をガンガンに効かさせた車内で互いにカラダを貪り合う(エロいことをする)。連絡先を交換してはまた別の友達を連ねては相手を入れ替えながら似たように遊ぶ。どちらからともなく飽きたらまた新たな出会いを求めて街へ出る。忘れた頃に以前知り合った女の子とバッタリ出くわしては、互いに妥協するようにまたたまに交わう。この繰り返しだ。その気になれば外へ出るだけで自然な流れで女の子とエロいことが出来た。それをカラダが覚えているのだ。
 昨今取りざたされている性犯罪のようなものは異次元の世界で、女の子も女の子で己を解き放つように、互いに全てを曝け出すように夜の街は乱れていた。僕が性をエンタメやスポーツのように捉えがちなのはこういった経験によるものが大きい。
 田舎町ですらこうなのだから、今考えてみれば東京や大阪市内での繁華街だともっと狂っていたのではないだろうか。前出の小説というのはこういったテイストの諸々を綴ったものだから実にくだらない。https://novel18.syosetu.com/n0366gf/

 2階の部屋から窓の外を見ると、この部屋からは空がこんなに近く見えるのかと、以前だと考えもしなかったようなことで感傷に浸りながらも、下半身がムズムズしてくる。
「心はこんなに綺麗なのに!」と、葛藤しながら業務に勤しみ、仕事を切り上げて居間に降りるとこちらへテクテクと寄って来るかぼちゃパンツの0歳児を腕に抱えながら晩酌をする、不思議な感覚で過ごす日々だった。

 

7月12日(日)  晴れ

 普段から週末になるとラーメン屋を練り歩いているにもかかわらず、7月11日のラーメンの日を家族でスシローへ行ってしまうという失態を犯してしまう。
 前日から発熱のあった上の子は通院の甲斐あってか、処方された薬を服用して一眠りすればその日の内には解熱に向かっていた。週末の内に済ませておきたい用事として、最近上の子が視力検査で引っ掛かり眼鏡を作ったのだが、眉間辺りの鼻当ての当たる部分に痒みがあるとかで午前中へ皮膚科に診せておきたいという用件があった。
 早朝から駅前の皮膚科へ連れて行き、その間に僕は車のディーラーでエンジンオイルの交換を待ちながらセールス担当と新型のSUVの売れ行きや今後の買い替えの話をしながら時間を潰した。

 互いの用事を済ませたところで10時と半分を回った頃に駅前のロータリーで妻と子供達を拾い、上の子の「お腹が空いた」の猛アピールを浴びながらこの時間でも営業していそうな選択肢を検索していると、最寄りのスシローが目に留まる。この時間帯であれば空いているだろうし、それであればたまには良いかとの判断だったが、もっとも上の子の病み上がりでラーメン屋という選択肢はそもそも無かったようにも思う。

 廻る寿司を食べるくらいなら質の良い刺身を晩酌の肴にしたいと、このところ避けがちではあったが、久々なので皿の色を気にせず食べていると、以前よりも上の子がよく食べるようになっていることに気付かされる。僕と妻が特上ネタ(といっても回転寿司ではあるが)をオーダーしようものなら自分も食べると言っては便乗する。
 下の子もベンチシートで妻と上の子の間に座りながらニコニコと離乳食を食べていた。ニコニコという表現が的確だと思えるようになったのは、泣く時以外の意思表示を顔の表情で読み取れるようになったからだろうか。それまでは同じ笑みを見せるでも、ヘラヘラしているであったり、ニタニタしているといった表現でも違和感がなかったように思う。
 上の子がデザートを食べ終えて子供達の口の周りを綺麗に拭き、コスパの良いとは言えない中々な金額を支払いながら、また暫くお預けだと店を出た。

 ラーメンの日にラーメンを食べ損ねたというジレンマからか、翌日のランチは海辺のモールに向かう前にその最寄りのJRの駅前のラーメン屋へ立ち寄ろうと、妻も総意のように子供の希望を聞きもせずその店に向かった。
 所謂二郎インスパイヤ系の有名店ではあるが、この日のスタッフは外国人スタッフで占められており、脂や野菜の好みがしっかり通るのかと疑心暗鬼であったが、見栄えがいつもと若干違う形で出されはしたものの、何とかラーメンを食せたことで満足した。

 モールでは書店で新刊のチェックや子供の絵本コーナーを巡り、一通の買い物を済ませ、帰り際にドラッグストアでビタミン剤を買うという妻を店先で待っていると、K-POPアーティストのような個性的なファッションの家族連れの男性が目に入った。
 店先の消毒液に手に掛ける上の子に、手元の荷物を下ろさないと上手く出来ないのでは?と示唆していると、その個性的な男性が僕と上の子の間を遮るように視界に入り込んで来るので、何か怒らせるようなことでもしたかと思いきや、マスクを下にずらしながら声を掛けてくるその男性は小学時代に同じ少年団でサッカーをしていた1つ上の先輩だった。小学からの馴染みということもあり先輩とはいっても高校や社会人以降に知り合う関係のソレとは違う。いつか触れた両手小指の無い監督にしごかれた言わば盟友のようなものである。

 互いに地元を離れ、Facebookで繋がった頃には市内の両端同士でそれぞれ離れたエリアで生活をしていることは認識していたが、こうバッタリ会うと何処となく小っ恥ずかしさはある。
 別れた後、Facebookメッセンジャーから「声掛けてくれて有難う。よく分かったね」とメッセージを送ると、「15年振りくらい?だと思うけどすぐ分かったw」と返信があった。すぐ分かったという表現が何を意図するものかは知る由もなくまたどこかで気恥ずかしさを覚えながらも、相手も40歳手前にはとても見えないくらいにはビジュアルを維持していた。というか元々の素材も良い。
 地元の居心地が良くて、出来れば昔の馴染みと関わりが続くエリアで生活をしていたかった僕は、こうして昔からの知人と会うとやはり嬉しい気持ちになる。
 先々では地元の都市部にマンションでも買い直そうと思うこともあったが、子供達にとっては今の住環境が故郷そのものなのだとも思う。
 夕食時にジャンクスポーツを観ながら彼を含めた昔のエピソードを妻に話していた。

 

7月10日(金) 雨

 早朝から上の子に発熱があり、朝一のミーティング前に駅前の小児科に診せようとバタバタしていたら、案の定ミーティングの開始時間を回ってしまった。
 下の子を抱えて車中で待ちながらチームのメンバーへ、当初のアジェンダを少しアレンジしてタスクの進捗状況の報告から先に進めておいて欲しい旨を伝えると快諾してくれた。僕よりもそれはそれは滑らかに喋れるメンバーで、本当は僕よりも彼の方が今の僕のロールは適任なのではないかと常々思う。
 帰宅して開始時間を20分回ったところで合流すると、普段通りにクライアントへの週次報告がなされていた。
 こちらの働きかけに対するクライアントのフィードバックから意図を盛り込み、ブラッシュアップを重ねながら業務を組み立てて完成に導いていく。クライアントとの関係が長いこともあり、この辺りの相乗効果を互いに実感しながら信頼関係が重ねられているように思う。双方の立ち位置や役割を互いにまっとう出来ていて始めて得られる手応えとも言える。次々と困難は立ちはだかるはもののチームの雰囲気は非常に良い。

 このところ日中は会議に出ずっぱりなこともあり、成果物のレビューや自分の仕事は遅い時間に片付けることが増えているが、家族の傍で仕事をしているからかそこまでハードワークを強いられている感じはしない。
 全社的には、年次の有給を上手く活用して夏季休暇を取るようにと呼びかけのメールがこのところ顕著に行き交っている。余り働いている気がしていない自分にとってはどうしたものかといったところであるが、仕事に対する耐性といった観点では独身の時と比較して相当タフになった。
 チームのメンバーと会話をするなかで感じたことの一つとして、在宅ワークは妻帯者ほど有意義に捉えているように思う。他のチームを見ていても、痺れを切らせてオフィスへ出向いてしまうのは、1人で間が持たない者か家庭での居心地が悪い場合が少なくない。
 僕が毎日自宅にいるお陰で、毎日の昼食の仕度を余儀無くされて負担が大きくなっている妻であるが、「週末に子供を連れて家を空けるから一人でゆっくりしていては?」と提案すると、「独りにしないで。一緒にお出掛けしたい」と言う。
 いくら平日忙しくて疲れていても、週末は何処かで気晴らしをしていたいのは僕も同じだ。意識してのことではないが、家庭内の関係性も良いと言えるのかも知れない。

 日中の会議の合間にその日の晩の酒を買いに車を出そうとする時に、いつも目にするHondaのFitに籠りきりの何処かの家の旦那さんがいる。いったい車の中で毎日どんな仕事をしているのだろうと関心が高まる。多少は僕も他人が気になる。
 ある日、自走式の駐車場内に何処かの車内から漏れる音楽が大きく鳴り響いていた。Fitの前を通ると運転席の男性が体を揺らしていた。確かに自宅や平日のオフィスでは出来ない。

 

7月5日(日) 曇りのち晴れ

 この所他チームとの調整事やクライアントとの決め事に対する立ち回りで日中帯はほぼミーティングに費やしている状況で、それら決定事項をプレゼン向けのスライドに起こすしたり既存の文書に反映させる時間を取るのが難しい。
 Outlook上のスケジュールは所謂テトリスの如く様々なミーティング参加依頼で重なり、その中から何処にいなくてはならないかの判断してはそれらへ参加に顔を出す。
幸いウチの会社のカルチャーなのか、時間を取りさえすればそれなりにサクサクと物事が決まって行くため話は前に進むのだが、たまにクライアントが何も解を持たないまま、ファシリテーションする場だと不毛な時間を費やすこともある。
 意外にも長時間に及んだ先週のクライアントへの週次の報告会の日の午後、流石にこれ以上紙書きをスタックさせてはと、チーム内の別のマネージャに午後の都合はどうかと声を掛けたのだが、「今小学校の行事の手伝いに来ているんだよねw」と返ってきたため、思い切り突っ込んでやろうかと思ったのだが、「了解です」と何事も無いように取り繕いながら、何と返すのがこの場では正解だったのかと他のチームメンバーと己の頓智の無さを悔いた。
 次週以降は少し各々のタスクの進捗を細かく見ることにしつつ、スタックさせている紙書きをいくつか先延ばしにした。

 リビングで妻が発狂しているので駆けつけたところ、カリモクオットマンの上で正座をしてエアコンのリモコンを指先に携えている0歳児の姿が視界に入り、ますます目が離せない。この高さをどのようによじ登ったのか考察するものの、どう捉えても胸の高さ程はあり腑に落ちない。

 平日に迎えた上の子の誕生日にと、週末の昼を利用して海辺のモールの中にある焼肉屋でランチを取った。上の子は以前クリスマスに利用したバイキングのお店に行きたがったが、ここもコロナ禍の煽りを受けてか広々としたフロアのテーブルの大半が椅子を逆さにしてテーブルに置かれた状態で、客足も遠のいているようだった。
 海鮮盛りの海老は頭付きで出され、いつもは大好きな海老の海老味噌の味が子供には少し早いようだったが、盛岡風冷麺やロースやカルビを美味しそうに食べ、食後のパイナップルがくり抜かれたような恰好のシャーベットにも満足気だった。
大人もこういった日くらいはと、きめ細かにサシが入った特上の和牛をオーダーしたが、以前はいくらでも食べることが出来たカルビやロースも脂が多いと胃に閊えるは歳のせいなのかも知れない。

 その日の夕食後、タブレットで子供の学習を見ていると国語では既に漢字を書いていた。学校ではまだ五十音をひらがなで書き出す練習をしているようだったが、ゲーム感覚で学習が進められるタブレットも案外悪くない。
「うえ」という字に「下」を書きそうになったり、おうさまの「王」の字は「玉」の一つ上の部分に点を置こうとするなど、色々と間違いはするものの何処となくこれまでの学習から目にしたことを記憶している感はうかがえたので、毎日こうした時間を取って正しい方向に導くことが出来れば無理無く学習は捗ると思えた。
 これも在宅で仕事が出来ることによる恩恵なのであるが、実家とLINEのビデオ通話をした際にたまたま帰省していた叔母に彼是4カ月近くオフィスへ行っていないし、今年いっぱいどころか来年も家で仕事をしているように思うと伝えたところ「アンタは良くても奥さんが大変じゃない」と突っ込まれ、確かにそうかも知れないと感じた。
 子供が登校を制約されていた時からの名残りで、普段はオフィス界隈で簡単に済ませる昼食の仕度も妻任せではあったわけで、正午時のミーティングの時間を意識させたり気を使わせてしまうくらいなら自分の事くらいは自分で熟す方が負担は軽くなるのだとは思う。やれることは直ぐにでも実践しよう。